昭和50年07月10日 朝の御理解



 御理解 第74節
 「かわいいと思う心が神心じゃ。」

 仏教では慈悲、慈悲心を説きますね。慈悲の心。キリスト教は愛の心を説きます。金光教でも色々に言はれます。金光教は真を説くとかまたは報恩、恩に報いると言う事を中心に説くとか、色々言はれますけれども、私は仏教のそれキリスト教のそれに匹敵するほどの言葉をもって、金光教は何を説くかと言うならば、教祖の神様御自身がそうでおあありになった様に、神心を説かれたと思いますね。神心。勿論神心の内容は和賀心です。和らぎ賀ぶ心です。しかもその心でです可愛いと思し召す、可愛いいと思うと言う事でなからなければいけんのです。
 同時にただ信心はなくても、非常に同情深い深切な、心の優しい美しい人があります。言うなら神心の強い人がありますけれども、言葉は神心と言うても私は仏教の慈悲、キリスト教の愛に匹敵する程しの、いや匹敵するじゃないその愛も慈悲も、神心の中に包含される程しのものだと言う様な風に頂くためには、ただ親切な心が強い神心が強い同情心が強いと言った様な事では、匹敵も出来ませんし、それを内容としておる程しのものがあると言う事には、思えないと思うですね。
 そんならどう言う事かと言うとです。強い神心がどこから出て来ておるかと言う事です。それは神を信ずると言う事です。神を信ずるという心から、生まれて来る所の神心でなからねば大宗教である所の、仏教とかキリスト教と言うそれに匹敵する程しの事にはならないと思うです。神を信じて疑わないそこから生まれて来る所の神心なんです。そこから生まれて来る所の親切であり、同情心であり勿論神心の中には、撫でさすりすると言った様な事だけではありませんよね。叱りも叩きもするそれも矢張り神心です。
 けれどもそれは神を信じきってから生まて来る所の、神心に至って初めて金光教は神心を説くんだと言えますし、その神心の中には仏教が説くキリスト教が説く、愛も慈悲心も、神心の中に包含されたものだと言う様な、大きな偉大な心だと言う事になるのです。皆さんの周囲でも、信心のない方の中に、本当に神心の強い人があるですよ。親切な人が有りますよ。けれどもそれでは大した事はないです。
 自他共に本当に助かると言った様な程しの事にはなって来ない。この助かると言う事。それはどこまでも神を信じて疑わない。そこから生まれて来る神心であって、初めて金光教は神心を説くんだと、堂々と言えると思います。昨日は午後から久留米の佐田さんのところの、御先祖の御霊様に式年になっておられる方があったり、それから佐田さんの妹さんに当る方の、三十年の式年に併せて、大変盛大けれども別に親戚を呼んでまでと言う事ではなくて、お家だけでなさいました。
 皆さんも何時もお話するからご承知の様に、久留米の佐田家と言えば、十何代も続いた老舗でもありますし、とにかく仏教にこりかたまっておられたお家なのです。今でも矢張り月に一回ずつぐらい、今合楽で言う信心教励会の様な事が、偉い坊さんをしょうへいしては、信心の集会の様な事をなさってあると言う事です。以前倒産される以前の佐田さんなんかの場合は、それこそお寺さんも勝たん様な働きをして、ご先祖の方達はなさっておられるわけですね。
 それは佐田さんと頃に初めて参りました時に、それこそ見事な仏壇を拝んでおられました。勿論改式をなさいましたからそれは親戚の方に、皆上げられました。それは中には骨董価値で言うなら、随分金になる様なお仏像やら、お道具が入ってました。それは改式されたから全部、親戚の方に差し上げられました。そして金光様の信心によって一心を通して助かろうと言う、本当の信心が段々分かって来られたわけでございます。
 そういう訳でございますから、親戚の方達は信心深いけれども、金光様でご先祖をお祀りするなんかに心を向けられない訳です。それで親戚やら仰らんでいいですよ。内々で思いをこめ真心をこめて、なさればそれで良いですよと言うて、昨日のお祭りになった訳ですけれども、もう本当に真心をこめた一生懸命のお祭りを、私と他三人の先生方と奉仕させて頂きました。
 神様にその事をお届けさせて頂きましたら、頂きます事がね、ビ-ル瓶が五本並んでいるのですよビ-ルが。所がねそのビ-ルがレッテルが全部取れておる訳です、レッテルが貼ってないです。どう言う事だろうかと私は思いましてね、ビ-ル瓶のレッテルのない、そして私がその御理解を頂いてから、感じさせて頂いた事ですけども、私は元々が酒屋ですからいわば、利き酒は誰れよりも私は上手です。
 まあ利き酒だけではない、酒を扱う事に於いてもう、それで一生終ろうと思うとったのですから、小学校を卒業すると早速酒屋の大変喧しい、厳しい酒の調合の上手なお店に、私は奉公いたしました。てすから利き酒と言う事を申しますですね。この頃新聞でビ-ルの利き酒をやってますよ。知名の人が集まってそれから女給さん達も沢山集まって、福岡でやってますよ。所がねキリンビ-ルが良いの、アサヒビ-ルが良いのと言いますけれど、実際当てた人は一人も居ない、みんな当てた人は一人も居なかったです。
 と言う位に実を言うたら誰が飲んでも同じ様なもんだと。キリンが良いのアサヒが良いのサッポロが良いのと言うけれども、本当に分かる人はそんなに少ないと言う事です。これも佐田さん所の四、五年も前の宅祭りの時でした。あの時は四本ビールが出ておりましたもんご直会の時に。アサヒとかキリンとかサッポロとか色々出てました。それで私かね、それを皆に飲ましたんです。
 あんたどんはキリンが良いのアサヒが良いのと言ひよるばってん、どれがアサヒかどれがキリンか分かるかと言うて、私が全部印をこちらに入れといてから飲ましたら、誰も当てきりませんでした。それで私が私に持って来てごらんと言うてコップば、全部印を入れとるとを、私が飲んでみてこれがキリンだよ、これがアサヒだよと言うたら、みんなピシャッと合いました。
 と言う様に私は外の事は出来んけれも、酒に関してだけは詳しいです。もう腐れ酒をなおす事やら、それは酒を買う時には利き酒が出来なければ、本当の酒は買えない。昔の酒屋はそうでした。私はお酒が悪くなる三十分位前には分かるです。もう三十分前になるとですね、とても美味しくなるです酒が。勿論そこに香りとか色々見る訳ですけどね。だから日がくるなら、日がくる前にぱぁっと処置してしまう訳ですね。それが出来なければ昔に上げ酒屋は出来ませんでした。
 と言う様な事を私は、昨日のお祭りの中に思わせて頂いて、結局アサヒが良いのキリンが良いのと言うけれども、それが本当に分かる者はいない。本当に分かるのは私だと言う意味なんです。いうならば神様を信ずるとか、御霊様を信ずるとかと言うけれども、本当に神様を分かり、本当に御霊様のお喜びを目の当たりに見たり、感じたり出来るのは私だと言う事です。今日のお祭りと言う事はいつもの場合ですけれども、ここで御霊様が一番徳をなさる、ここんい御縁を頂いた御霊様達が、一番おかげを頂かれるのは、私がそれを信じてお祭りを仕えるという所にあるのです。
 まぁこげなお祭りをしたけんで、こんな御法事をしたけん、仏様やら御霊様も喜びござろうというのじゃ決してない。喜びござるの苦しみござるの、どういう状態であるの、又御霊の世界の厳然たる、それを私が信じてそのお祭りを仕えておると言う事が、このお祭りの値打ちだと言う事を頂いたんです。まあだまあだ限りがない事でございます。まぁだ分からん世界が沢山ございます。私にも。
 特に神様の世界等と言うものは、とてもとても一生がかりしても、分からん世界の方が多いでしょう。けれども誰よりも神様を信じて疑わないもを頂いて居る、そこから生まれてくる神心であって、本当の神心と言う事が言えるのだと言う事でございます。言うなら、神心の内容である所の同情心とか親切とか、そういう心の人が神様を本当に把握してなかっても、神様を本当に分かっていなくっても、そういう神心の強い人が親切心の強い人が、神様に打向ってお願いすると、誰よりも効果が多いです。
 効果が多いというか神様が聞いて下さるです。三代金光様にある無学の先生が、学院を卒業されました。そして金光様に私は無筆の者で、無学の者でこれからお取次ぎの御用をさせて頂きますが、どういう心掛けにならせて頂いたら、人が助かるでしょうかというお伺いをなさった。その時に金光様がね、この神様は親切心一つ有れば人が助かりますと仰ったそうです。その親切心が神心その神心がです。
 只生れつきの神心であっても、その神心の強い人が、神様へすがるのですから、願うのですからおかげを受ける人が助かるのです。今日私が申しましたのはそれではない、そういう神心をばです、神を信じて疑わない。御霊様の実在なら実在を、本当に信じて疑わない人が、御霊様の慰霊祭を奉仕する時、又は神様にそれを打ち向かう時に、本当の働きが生れて来るのです。金光教で言う言うなら神心と言うのは、慈悲心にも愛の心にも増した、広さ深さを持ってあるものだと私は確信いたします。
 けれども只それが神心と言うだけでなくて、神を信じて疑わない心から生れて来る神心と言う事になると、これはもう愈々完璧であります。けども神を信ずると言う事においては、限りがない事ですから、完璧と言う言葉は使えませんけれども、お祭りを奉仕するでも、霊祭をさせて頂くでもそういう神を信じ、御霊様の魂の世界での働き振りと言った様なものを分からせて頂く者が、奉仕をすると言う事になるのですから、これが一番有難いと言う事になるのです。
 本当に私は昨日、お祭りを奉仕させて貰ってから、神様はこちらが実意の限り、真の限りを尽してのお祭りを奉仕します。けれども限りがない神様の目から見ると、まぁだ抜けた所ばっかり、足りない所ばっかりであると、いつも思うんですけど。昨日のお祭りもそうでした。それこそ威儀を正してのお祭りですし、それこそお供え物なんかもお宅際りを仕えられる様に、賑々しいお祭りでした。楽員も四人奉仕しました。だからお祭りとしては、口上の言い様のない様な立派なお祭りでした。
 けれどもこういうキチッとしたお祭りだけれども、裃と言う事を頂いた。、裃と言うことは、キチッとしたと言う意味でしょう。それを上と下と頂くんですよね。これが上です。だから下という字を下に、一本棒をば抜いとるです。これで峠と読ませてる様な感じで頂いたんです。だから本当に行き届いた霊祭だったけれども、これは佐田さん達に問われる訳でございますけどね。これで済んだとは思いません。本当に不行届なことでしたと言うことが出て来なければならんから、上という字を書いて、この棒を一本抜いて下と言う字に併せるという感じで頂いた。
 信心ちゃそういう意味できりがないです。もうこれで良いと言う事があろう筈が有りません。そこに私は誠と言う事が言えると思います。誠とはもう本当に足りない足りない、どれだけしても足りないという心が真だと言われる意味が分るです。信心はそういう信心を内容として、神様に近づいて行く、神様を愈々信じる力を養うて行く、しかもそこから生れて来る、神心がフルに使える様なおかげを頂いたら、素晴らしいですね。
   どうぞ。